Life style 私と人生、「5つのマイルストーン」
アメリカ留学からの帰国後、安藤さんは上智大学に入学。アルバイト先でテレビ関係者に声をかけられたのがきっかけで、報道番組に起用されることに。ある時、ポーランドへの取材が決まった。当時のポーランドは米ソ冷戦時代下の共産主義体制。自主管理労組「連帯」を率いるレフ・ワレサ 氏(のちのポーランド大統領で、ノーベル平和賞を受賞)が民主化運動を指揮し、東欧民主化の端緒を開き、ポーランドの民主化まで導いた。
安藤さんが番組プロデューサーから命じられたのは、「ワレサ委員長(当時)のインタビューを取ること」。ジャーナリストでもない大学生を海外に派遣し、民主化運動のトップのコメントを取るなんて、今では考えられないほどの無茶振りだ。

安藤「大学生だから時間も体力もあるし、お金もからないし、文句も言わなさそうだったからでしょうね。当時の『連帯』といえば、まだ非合法だった労働組合。表立って活動していない人のインタビューなんてどうやって取るの? ですよ。とりあえず、街頭インタビューで現地の人たちのコメントを取ってこい、ということで、ワルシャワの街に取材に行きました」
当時のポーランドは経済が悪化し、食糧はクーポンによる配布を行っていた。クーポンを持っていても、食べ物が手に入らない日々。そんな暮らしを送る人々に「今、何がほしいですか?」と声をかけたところ、全員が「平和がほしい」と答えた。
安藤「『子どものミルクがほしい』『お肉が食べたい』なんて物質的なことを言った人は誰もいませんでした。当時はソビエト連邦からの圧力が凄まじく、いつポーランドが侵略されるかわからない状態。日本から来て、平和ボケしていた私にとって『平和がほしい』という切実な言葉は衝撃的で、自分が世の中を知らなすぎることに愕然としました」
ポーランド滞在中、外国人旅行者にはレストランで食事が提供されていたものの、食べたいものを好きに注文できるような状態ではなかった。一方の日本といえば、バブル景気の真っ只中。安藤さんはこれ以上、ポーランドにいることに耐えられず、プロデューサーに「帰りたい」と直談判した。
安藤「プロデューサーは、『いいよ。明日の朝、フロントに預けてあるパスポートを受け取って。航空券も手配して置いておくから』って言ったんですね。私は『これでやっと日本に帰れて、お寿司が食べられる!』と喜んでいたのですが、翌朝、フロントでパスポートと航空券を受け取った時、猛烈な敗北感に襲われました。言われたことを何一つできていないのに、一人日本に帰ろうとしていた自分がものすごく惨めだったんです」
そのままプロデューサーのところに行って頭を下げ、「帰国せずに最後まで取材します」と宣言。最終的には困難と思われたワレサ氏のインタビューにも成功した。

安藤「私はアルバイトの身分で、報道志望というわけでもなかった。プロデューサーたちから怒られるたびに、『これはアルバイトだし』ってエクスキューズしていたんです。でも、このポーランドでの出来事で、世の中には自分の知らないことがたくさんあって、それに向き合うべきだということと、どうせ辞めるなら、何かを成し遂げてから辞めるべきだ、という2つのことに気付かされた。そこから、怒涛のように報道の現場で仕事をするようになったんです」
「何かを成し遂げてから辞める」という宣言通り、その後、『CNNデイウォッチ』や『ニュースステーション』などでキャスターやリポーターを務め、フィリピン政変のリポートでギャラクシー賞個人奨励賞を受賞した。そこで一段落つけて、休学していた大学に戻って勉強していたところ、今度はフジテレビから声がかかり、『FNNスーパータイム』に出演することに。学業とも両立し、30歳で大学を卒業した。
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「安藤優子」というスタイルができるまで